昭和49年05月22日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、是が神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす事があり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫を切らしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いに成って来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」
今日は取分けこの、人間と云う事「身代」と「人間」と「達者」とあるが、まず私は人間が出来なければいけないと思う。昨日新聞を見ておりましたら、あのうこんな事が、お花の先生かなんかが書いておられました。紫陽花(あじさい)紫陽花と言う花がありますね。あの紫陽花に小便をかけると花が赤くなると云う事が書いてありました。昔は良くその、今はあれは軽犯罪で喧しいから段々なくなって来た。立ち小便をする。垣根に一杯作ってある紫陽花の花、そこへ立ち小便をする。
するとそこだけ花が赤くなるそうです。今朝その事を御祈念中に頂くんですよ。だから、どう云う様な事だろうかと、皆さんも何時も御理解頂かれる様に、紫陽花と云うのは、あれは調和と云う時に頂きます。人間の調和が取れる。人間だけじゃないけれども、一切の上に調和が取れると云う事は素晴らしい事です。例えば今日の御理解の中に、「神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る」と仰る所の互い違いになる。不調和と云う事です。考えが誰の考えとか考えが違う。
そこでその調和が破れると云う事になる。私はそれから思たんですけれども、そんなら調和を保つ為にはどう云う事でなからなければならないかと言うと、まあ小便と言やあ、小さい事だと思うですね。大便と言やあ、まあ大きな事と云う事になりますかね。便利をすると言いましても、大きく便利をするとか小さく便利をするとか、言うなら、目先の小さい事とでも申しましょうか。
だから目先の事ばかり考えたり、ちょっとした事に、言わば拘ったりする様な事では、何時も自分の心は穏やかではありませんですね。そう云う様な事です。だから今日私は、取分け今日の御理解の中から「身代」と「人間」と「達者」とこう仰る。どれも大事ですけれども、取分け「人間」と。信心させてもらって、人間がどの位出来て来たか、ちょいと小便かけられると、もう真っ赤になる。だから小便と反対の物をかけられると、もう青うなる。いわゆる赤うなったり青うなったりと云う事です。
赤くなると云う事は腹立てる事だと思うです。腹立てると顔が真っ赤になる。何かちょっとした事が起こるともう青うなって驚く。びっくりする。赤うなったり青うなったりせんで済む様な人間になりたい。私は人間が出来ると云う事はそう云う事だと思うです。もうちょいとした事で腹が立つ。そう云う人はちょいとした事でも青うなる。そりゃ人間には様々な性格がありますけどね。慌てる人落ち着いた人、まあ様々ありますけれども、ただ落ち着いておるからと言って人間が出来とると云う事ではないです。
ここで言う人間と云うのはです。どれ程神様を分かりと言うか、神様のおかげを知ってです。神様の働きを信じておるから、赤くならんで済んだり、青くならんで済むと言う意味の事だと思うです。ですからあの人は気短だ、あの人は気長だとかおとなしいとか、気が荒いとかと、それとは違う。信心して神のおかげを頂けば、言うなら信心して神様の働きが解る様になればです。慌てる人でも慌てんで済むのである。言うなら小便どんかけられた様な事に真っ赤になったりせんのです。
さあどうしようかと言って人なら慌てる様な時であっても、神様の働きに間違いがあるはずはない事を信じておるならばです。驚かんで済む慌てんで済むです。いわゆる「神のおかげを知らぬから互い違いになる」と云う。お互い信心さして頂いて、どう言う程度に人間が出来て行きよるだろうか。やっぱりなんと言うても、まず人間が出来にゃいけませんよ。でないと付き合いにくか。勿論神様付き合いなんか出来やせん。もうちょいと言やあ顔色が変わる。と云った様な事ではです。
小便どんかけられた位な事で赤うなったりする様な事では出来ない。けれども、実際問題として様々な、例えば事柄・問題に直面致します。自分の気に添わない事がありますと、やはり愉快ではない、不愉快である。やっぱりそげん時には、確かに何処にか顔色が変わってるでしょうね。だからそう言う時にです。すぐ「金光様」が唱えられる信心。そして、日頃頂いておる御教えが直ぐ出て来る。
是も神様にどう言う御都合か分からん。いや神様のおかげに間違いは無いと思うと、心が安らいで、言うなら顔も恐らく安らぐだろうと思う。其処の所のゆとりを持ちたい。それはもう顔が真っ赤になって、腹掻いとる時には人相まで変わるですよ。眉はこう釣り上がった様になってですね。やっぱ顔が引きつった様になっとる。悲しい事ですね。私はまず信心さしていて頂いて、人間が変わらなきゃいけん。
人間が出来なきゃいけん。それもただです。修養で出来ると言うのではなくて、神様を判るから、神のおかげが解るから、例えば腹の立つ様な問題であっても、それを「金光様、金光様」で受け止める事が出来る。いやそれが却っておかげと解る。昨日善導寺の久保山さんが、孫の写真が送って来たから見てくれと言うて、今度写真を送って来られた。これを見せて頂きよりました。そしたら是はまぁ前に御理解頂いた事があります。ちょっと違うですけども、こんな事を頂いたから紙に書かせて頂いた。
『小さな事に拘らず、大きな事に動ずる事なく、天地の様に生きたい』まずそう言う願いをお互い持たなきゃいけんです。そう有りたいなあ。それこそ天地の様に動じんで済む様なおかげを頂きたいなあと、小さな事に拘る。小さな事に言うならば不愉快な思いをしなければならない。それこそ細い細いでやり過ごせれるおかげを頂きたい。そう云う修行をさせて頂く所に、大きな事に動ずる事無くと云う、大きな事に動じんで済むおかげが受けられると私は思うです。そこで小さな事に拘らずと云う事がです。
言うなら天地日月の心になる事と、また肝心だと仰る様に、言うならそれこそ天は与えて与えて止まない麗しい心だとこう与える心。それに大地は黙ってそれを受けて受けて受け抜く心だと云う、そういう言わば修行をさしてもらう。だからまずは今私が言いました様な天地の様な心で行きたいなあと。そう云う大きな人物になりたいなあという願いを持たなきゃいけん。
そこでそのおかげの頂けれる為に、いわゆる「天地日月の心になる事肝要」と言われる、そう云う天地の心を心としての精進をする。はあ小さい、心の中で穏やかでない。原因は何処にあるかと云うと、自分が汚いからです。そげな事しよったら自分に便利が悪か。そげな事しよったら自分が損する。と云う様な汚い心がです。天の心に、限りない美しい心に、変えられて行く様な精進をしなければいけない。
自分に小さいこんな汚い心があるんだと気付かしてもらって、そう云う心をお詫びをしたり、改まって行く精進をさして貰う。そう云う例えば精進をさして頂いておく所から、是は大きな事に動ずる事なくと云う、大きな事に直面しても驚かんで済むおかげが備わって来る訳です。大きな事だけ驚かんで済むんじゃなくて、それには矢張り小さい事に拘らんで済む信心修行が日頃出来ておらなきゃいけない。其処ん所をだからある場合には、辛抱しなけれんばならん所もある。
それに耐えて行かなければならん「金光様、金光様」で耐えて行きよる内にそれも神の働き、神のおかげであったと解る様になるとです。もう段々問題が問題でなくなって来る。拘らんで済んで行く様になって来る。小便どんかけられた位に赤うならんで済む事になって来る。そう云う修行さして頂いて行く内に、何時の間にか大きな事にも言うならば動じんで済む、慌てんで済む程しの心が頂ける様になって初めて、天地の様な心で生きて行けれる信心が出来る。そう云う人を人間が出来たと云う事に思うのです。
生れ付き人間が大きい、生れ付き心が穏やかと云うのじゃないです。どう云う人でも良いから、小さな事に拘らんで済む、大地の様な信心の修行をさして頂いて行く内に大きくなれる。又は大きな事が起こっても、驚かんで済む様な、動じんで済む様なおかげが頂かれる。そういう人を、私は教祖様は「人間」と「身代」と仰るその「人間」というのはそう云う意味の事だと私は思うです。そう云う人間を目指したい。
為には願いを立てなければいけない。「小さな事に拘らず、大きな事に動ずる事なく、天地の様に生きたい」そう云う願いをまず立てる所からです。修行が始められる。その修行が小さな事には拘らんで済む私になりたい。もう流れ川三尺、どんなに汚い物でも、もう三尺流れたらもうそこでどんな言わば食物でも洗うて良い様な、すっきり流して行けれる人物になりたい。そう云う人間を、私は「身代」と「人間」と「達者」と言われる人間とはそう云う信心によって鍛われた人、信心によって練れた人。
そう云う人を私は、「人間」と云う風に教祖様は仰っておられると思うのです。神のおかげを知らぬから、互い違いになる。私共は神様のおかげ賀本当に解る様になるとです。一切賀です。其れもおかげ、是もおかげと間じれれるようになるのです。そこには例えば以前なら腹の立つ様な事柄であっても、それをおかげと頂き留めて行く事が出来る。言うなら、心のそれが根肥やしになるから、心が愈々豊かに大きゅうなって行くと云う事になるのです。今朝から頂きます、私共の心の調和と言うが。
破れるのは小さい事に拘るからです。それこそ小便をかけると紫陽花の花が赤うなる様に、ちょっとした事が引っ掛けられると、もうそれで心が動揺する。腹が立つ。それこそ真っ赤になって怒らんならん様な人物では、人間では「人間」と「身代」とここで言うておられる「人間」には当てはまらない。今日私は取り分けね、本当に人間を作りたい。それを信心によって作りたい。為には愈々神様のおかげをおかげと知り、おかげをおかげと解らして頂く信心に精進しなければならない事が判ります。
どうぞ。